信仰と宗教の間で ~『ミッドサマー』感想~

先日、一冊の本を読んだ。

 

1187年 巨大信仰圏の出現 (歴史の転換期)

1187年 巨大信仰圏の出現 (歴史の転換期)

  • 発売日: 2019/12/23
  • メディア: 単行本
 

 

内容としては、1187年という一つの時点における世界の各地域を「信仰」という切り口で解説したものだ。

一人の著者によるものではなく、共著という形をとることで各著者の専門性が遺憾なく発揮されており、ともすれば軽視されがちな近代以前の世界が色鮮やかに描かれている。

 

私がかつて研究していたのが中世ヨーロッパ史であるため同地域に心惹かれるのは当然であるとして、他に非常に興味をそそられたのが総論中の以下の箇所であった。

 

ヨーロッパに「宗教」についての新たな認識が生まれた背景には、十六世紀以降にカトリック世界が宗派分裂を引き起こし、多宗派の併存と宗派の選択権を認めるにいたったことがある。(中略)十八世紀以降、実学と科学の発展を支えて啓蒙主義は、信仰と社会の分離(世俗化)を導き、十九世紀における近代的学問の成立を通して、信仰は、科学的に解明できる学知として、政治、法、経済、文化と並ぶ、人間生活の一分野としての「宗教」に囲い込まれたのである。

西洋近代はキリスト教を尺度として世界の信仰世界を分析し、(中略)体系性ある「宗教」の概念の下に分類した。しかし、仏教やイスラーム教、儒教などの広域性をもつ信仰だけでなく、世界に点在するあらゆる信仰は、こうした西洋近代的な尺度にはうまく当てはまらない。キリスト教ですら、中世においては、宗教という概念ではとらえがたい特徴をもっていた。

では、宗教と対比される「信仰」(本書では「宗教」と表記される場合もある)とは何か。信仰は、信仰する人間の全人格にかかわるものであって、ゆえに人間生活のすべての領域に分ち難く浸透している。(同書、p.7~p.8)

 

誤解を恐れずに簡素化してしまえば

 

・宗教:近代西洋の産物であり、キリスト教を尺度にした体系的なもの

・信仰:近代以前より世界中に遍く存在したものであり、必ずしも体系をもたず、日々の生活に根ざしたもの

 

と言えるだろう。

 

これを前提として、映画『ミッドサマー』の感想をつらつら述べていきたい。

 

TLでそれなりに賑わっていたため「そんなに話題になっているなら観てみるか」という、半ばミーハーな心持ちで映画館に足を運んだわけだが、1,800円を払う価値はあったと思えた。

 

観劇後、「カルト宗教みたいで怖かった」という感想を抱いたのではないだろうか。

実際、以下の記事が話題にもなっていた。

 

「向こうで映画見るけどあなたもどう?」元カルト信者の私が『ミッドサマー』に覚えた既視感 #ミッドサマー #カルト宗教 https://bunshun.jp/articles/-/36616

 

もし私が前述の書籍を読んでいなかったら、同様の感想を抱いたに違いない。

しかし、実のところはそうではないので、上で立てた前提をもとに話を進めていきたい。

 

・ホルガ村に存在していたモノは宗教なのか?

 

この問いについては、はっきり否と言えよう。

確かにホルガ村は北欧に位置してはいるが、"近代的な"文明社会から隔絶されており、なにより体系的な宗教組織や教義、明確な指導者は見られなかった。

統一性が不明な聖典らしきもの、凡庸な輪廻転生的な教えといった要素は信仰の範疇を出ているとは言い難い。作中に散見された、儀式を絵で表現したものやルーン文字も宗教的なものではなく、古代のゲルマン語派(ゲルマン人と呼称していないことには留意されたい)に源流をもつと考えれば、こちらも信仰に属するであろう。

キリスト教化もろくに済んでいない頃から使われていたルーン文字に、宗教性を見出すような真似は、ラクダが針の穴を通り抜けるよりも難しい。

 

結局は、ホルガ村という小さな村に根付いた生活習慣であり、コミュニティを存続させるためのルールと言ってもよい程度のモノしかないのである。あれを宗教というのはあまりにも大げさだ。

 

やや余談ではあるが、日本人の宗教観について同じ前提をもとにして少し触れてみたい。

 

「日本人は無宗教である」という人がいて、それに対して「日本人はクリスマスを祝うし、正月には神社にお参りして、葬式は寺で行う。無宗教ではなく、あらゆる宗教に対して寛容なのだ」という反論が挙がる、という図式を見かけたことがある。

 

私はこのどちらも適切ではないように思える。

日本人がもっているのは「宗教」ではなく「信仰」なのだ。

 

例えば、幼い頃に親から「ご飯を残すと罰が当たるよ」というようなことを言われたことはないだろうか。

よく考えてみてほしい。

一体、誰が罰を与えるというのか。

キリスト教的な、すなわち宗教的な「神」を想定していないのは確実だ。

だが実在する人間を想定するようにも思えない。(もしかしたら言葉通りに親から叩かれた人もいるかもしれないが)

恐らく、無理矢理に解釈すれば八百万の神のうちの誰か、ということになるのだろうが、私としてはもっと曖昧な「人間ではない何か」程度のものだと思う。

これはどうみても宗教ではなく、土着的な信仰だ。

 

それゆえ、日本人は無宗教ではなく「信仰」をもっていると表現するのが適切ではないだろうか。クリスマスや神社、お寺といったことも、それらを宗教的な要素ではなく信仰の要素へ落とし込んでいるからこそ、特別な意識をもたずに実行しているだと思う。

 

さて、もう一方の「日本人は宗教に寛容だ」という意見は鼻で笑い飛ばしたい。

次項でも述べるが、日本人は異質なものに極めて不寛容であると思っている。それは私とて例外ではないと、自戒の意味も込めて言っておく。

 

一つの宗教の信徒である人間は、信仰の徒である日本人から見れば明らかに異質なのだ。異質なものを奇異の目で見るにとどまらず、ときには排除や差別にも繋がることもあるだろう。私個人の体験を一般化するのは乱暴な論理展開なので控えるが、この感覚はそれほど間違っていないように思える。

そのような人間を果たして「寛容」と表現するのは果たして適切なのであろうか。

「寛容さ」とは如何なるものであるべきか、今一度考えてみてほしい。

 

・映画に感じた「気持ち悪さ」の正体は何か?

 

私は「理解できないこと」がまず一つの原因であると思う。

 

ダニーに感情移入した人は心地よさを覚えたらしいが、私は全体を俯瞰するように観ていたため、残念ながらそうではない。作品全体を通して気持ち悪さがつきまとっていた。

なにせ理解できないことだらけだ。

 

長生きしたいとは思わないが、少なくとも七十二歳になったからといって自殺するのは普通に恐怖を覚えるし、生きた人間を生贄として捧げる感性も、ギャグシーンともとれる謎の性儀式も、何一つして理解できない。

それゆえの気持ち悪さだ。

 

大抵の人間は自分の理解の範疇を超えたものについて、恐怖や気持ち悪さを覚えるはずなので、この感覚は少なくと異常ではないと思いたい。

 

ただ、ここで声を大にして主張しておきたいのだが「理解できず気持ち悪い=否定すべき」という図式は成立しないし、成立してはならないのだ。

作中で自殺の儀を止めようとした人間が数人いたが、あれは近代文明社会的な価値観の押し付けにすぎず、はた迷惑な行為だ。コミュニティ外からやってきた人間が、いきなり内部のことについて「あなたたちは間違っている」と言い出したならば、そんなものはただの荒らしである。

クリスチャンがヤケクソ気味に叫んだ「この人たちはそういう人間なんだ!」というセリフが、実は最も最適な答えだと思える。

 

もっとも、他人が死のうとしているのを見たら焦るのが現代人としては普通の感覚であるし、阻止できないかと模索した善性は十分好意をもつに値する。

 

もう一つの理由は「異様なまでの同調圧力」だ。

 

最も印象的だったのは、クリスチャンのセックスを覗いてしまい泣き叫ぶダニーに寄り添う村の女性たちだが、それ以外にも「皆が同じであること」を強いる場面が散見され、それがとにかく気持ち悪かった。

 

私自身、自分から他人に合わせるのは嫌いではないし、よくすることだが、それを他人から強制された途端、たちまち不快感の塊へと変化する。

自らの意志によらず、自らの個性を潰すことが強制されるのはストレス以外の何者でもない。

 

こういうときに思い出すのは小学校時代だ。

誰が言い出すでもなく、多数派に属していない=皆と同じでないと認知された瞬間、その子の居場所は極端に狭くなる。今思い返せば、そうならないようにスクールカースト(当時はまだそんな言葉はなかったが)上位の人間に無意識のうちに擦り寄っていた。

カースト下位の子を見る目は子供ながらにして残酷であったと思う。

 

もちろん先生たち業務量を考えれば、子どもたち一人一人をケアするのはものすごい負担であるし、そんなことまで望むのは酷であろう。子どもたちを効率よく管理するには、皆が同じである方が圧倒的に楽なのだ。

とはいえ、画一であることが良しとされるのはひどく不気味で歪である。決め事をするときにやたら多数決が使われていたが、あれはただの数の暴力であり、少数派の否定に他ならなかった。

 

そんな歪さを美化し、泥で煮込んだようなものを『ミッドサマー』に感じたからこそ、気持ち悪さを覚えたのだと思う。

 

 

ここまで長々と述べてきたが、気持ち悪さをあれほど突き詰めたのはエンタメ作品としては一級品だと思う。まだ観ていない人は是非観に行ってほしい。

 

最後に余談をもう一つ。

崖の上から老人二人が飛び降りたシーンでは、私は『素晴らしき日々 ~不連続存在~』の第二章を思い浮かべた。『ミッドサマー』を楽しめた人ならば間違いなく面白いと思えるはずなので、機会があればプレイしてほしい。(リンク先は年齢制限ありなので、自己責任で飛んでください。)

 

www.keroq.co.jp

 

次はゲームの感想でも書くよ。多分。