『FLOWERS』感想 -優しいパラノイアの螺旋- ※ネタバレあり

パラノイア……内因性の精神病の一型。偏執的になり妄想が見られるが、その論理は一貫しており、行動・思考などの秩序が保たれているもの(大辞泉

 

Innocent Greyが世に送り出したエロゲ「殻ノ少女」シリーズ(『殻ノ少女』、『虚ノ少女』、『天ノ少女』)では一貫してパラノイアが主題に据えられており、主要人物の多くがパラノイアを抱えている。もっとも、作中では本来の精神病というより強い執着、ないしはコンプレックス程度の意味で使われている。

 

同ブランドの百合ゲー「FLOWERS」シリーズも、シナリオライターこそ異なるが、このパラノイアが根底に存在していたと思う。けれどそれは「殻ノ少女」のように狂気を孕み、黒く染まった危ういものではなく、色とりどりの甘酸っぱい、それでいて優しいものであった。

 

だからこそ、きっとあのGRAND FINALEを迎えられたのだ。

 

さて、私が「FLOWERS」を手に取ったのは百合ゲーであったこと、かつ「殻ノ少女」を手掛けたInnocent Greyの作品であり、シナリオに期待できそうだったからである。

 

物語は春から始まり、夏、秋を経て冬に到る。

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以下のゲーム内画像は有限会社Gungnir様製作の『Flowers -Le volume sur primtemps-』、『Flowers -Le volume sur été-』、『Flowers -Le volume sur automne-』、『Flowers -Le volume sur hiver-』より、同社の著作権ガイドラインを遵守したうえで引用させていただいております。

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■Le volume sur primtemps -女の子を好きに為ったらいけないんですか?-

 

春。

出会いの季節。

主人公、白羽蘇芳が全寮制のミッションスクール、聖アングレカム学院に入学するところから物語は始まる。なんちゃってではなく、きちんとしたカトリック系の学校であるところが個人的にはポイントが高い。

 

開始早々、蘇芳は二人の少女と出会う。

花菱立花と

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勾坂マユリである。

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この二人のどちらかとくっつくのだろうなというのは想像に難くないが、この時点でなんとなくマユリを予想していたのは我ながらなかなか勘が鋭い。

 

蘇芳と立花、マユリは入学後アミティエとなる。

アミティエとは在学中におけるルームメイト、疑似友人制度だ。百合作品にありがちな(?)パートナー、姉妹制度ほど密なものではない。あくまでも学院側が決めるもので、コミュニケーション能力の育成が主目的らしい。

とはいえ予想通り、この三人による三角関係がメインとなり話は進む。

 

日々の生活や学院行事、そして七不思議にまつわる奇妙な事件を解決―春篇での探偵役は蘇芳である―していくうちに、三人の間の関係は徐々に変化していき、最終的に蘇芳はマユリと結ばれる。

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こんなCGを叩きつけられれば""勝ち"というものである。

 

作中の年代は詳しく描写されていないが、PCや携帯電話、スマートフォンといった現代機器が登場せず、かつ全寮制のミッションスクールという閉鎖空間の中で展開される人間模様は、なかなかに面白かった。ミステリー部分に関してはやや大雑把な味となっていることは否めないが、学院生活に添えられるスパイスとしては及第点であろう。

 

そして春偏の最後、蘇芳と結ばれ幸せをを手に入れたはずのマユリが突如学院から姿を消してしまう。

そう、物語の本当の始まりはここからだ。

殻ノ少女』で玲人が冬子というパラノイアに囚われたように、蘇芳もマユリというパラノイアに囚われることになると予感した。「殻ノ少女」にこれでもかと惹かれた私が、この展開を気に入らないわけがなかった。

蘇芳がどのような答えにたどり着くのか、俄然見届けたいと思った。

 

パラノイア

蘇芳:義母、マユリ

立花:蘇芳

マユリ:同性愛

 

 

■Le volume sur été -好きな人の為に、何かしてあげたいと思ったことはありますか-

 

夏。

変化の季節。

夏篇の主人公、および探偵役は八重垣えりかとなる。

春篇では一人でいることが多く、やや一歩引いた立ち位置にいたような印象を受けたが、彼女にもアミティエができる。

それがこの孝崎千鳥である。

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最初は反目しあっていた二人であるが、そこは喧嘩するほどなんとやらである。

お互い不器用ながらも徐々に距離は縮まっていき、終盤のバレエ発表会。本番直前のシーンがこれである。

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成功できるようにとのおまじないか、とも思ったが、どう見てもおまじないの域を明らかに超えている。しかも前夜に千鳥の方から「お願いがあるの」としおらしく切り出したから何かと思えば……。そしてラストには言わずもがな、えりかと千鳥は結ばれる。

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正直、春篇の内容からまた何かしらの別れがあるのではないかと若干不安だったのだが、そんなことはなかった。むしろ秋篇以降で千鳥の色ボケっぷりに笑わされるほどである。

 

さて、春篇での主人公の蘇芳は表舞台から引っ込んだまま――というわけではなく、失踪したマユリを取り戻すという決意を固め、奔走することになる。

夏篇全てを蘇芳視点で描くとまではいかなかったが、蘇芳視点があることによって、彼女の物語が続いていること、すなわちパラノイアに囚われたままであることを示してくれる。面白くないわけがない。

 

パラノイア

えりか:不自由になった足

千鳥:バレエ

 

 

■Le volume sur automne -叶わぬ恋でも想い続けることができますか-

 

秋。

終わりの足音が聞こえる季節。

 

秋篇を開始して聞こえてきたのは沙沙貴姉妹の声。ただ、どちらが喋っているかは判別できず、このCGを見たときに「ああ、意図的に隠されているのだな」と感じた。

(姉妹の判別方法として春篇で目元のほくろの数が挙げられていたが、以下のCGでは化粧によって隠されてしまっている)

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秋篇はそのまま沙沙貴姉妹の視点で進むのかと思いきや、譲葉視点で始まった。今回は彼女がホームズというわけだ。当然相手はネリネだろう。春篇からしばしばニカイアの会(すごい名前である。アリウス派は誰かと考えると……恐ろしい)の会長と副会長として仲睦まじい様子を見せてきた。お互いに想い合っているのは見て取れたし、どちらかが踏み出せばすぐくっつくと思っていたが……甘かった。

 

この二人、お互いに対して作中でも屈指のパラノイアを抱えているのだ。

譲葉視点で進むため、彼女のパラノイアの大きさに違和感は覚えなかったが、ネリネが持っているものも負けず劣らず――ともすれば、譲葉を優に上回るものかもしれない。

さらにここに沙沙貴姉妹も絡んでくることで、事態はより一層混沌としてくる。

 

苺・林檎→譲葉→ネリネ

となるのだから、もう泥沼である。

 

それが最終的にはこうなるのだから、物語というものはわからない。

Copyright Innocent Grey/gungnir All Rights Reserved.

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個人的に、合唱会での譲葉・ネリネによる『虹の魔法』の二重唱~Trueエンドの流れは春から冬を通して作中でも随一の面白さだと思う。四人の想いが絡み合い、解け、一つの形を描いていく様に涙した。

 

もちろん、秋篇でも蘇芳視点が描かれる。

マユリへ繋がる鍵を教える交換条件として、譲葉からニカイアの会の会長職を継ぐことを提示された蘇芳。春篇の最初ではあれだけ引っ込み思案であった少女が、全校生徒の前で堂々と選挙演説をするようになるのだから、げに恐ろしきはパラノイアか。

 

見事ニカイアの会長となった蘇芳は、譲葉からマユリへと繋がる鍵を教えてもらう。

そしてたどり着いた一つの墓標。そこに記された名は――。

あのエンドから一年半近くも待たされたら、発狂してしまう。

 

パラノイア

譲葉:ネリネ

ネリネ:譲葉

苺:妹

林檎:姉

 

 

■Le volume sur hiver -いつまでも一緒にいたいと想える人はいますか-

 

冬。

終わりの季節。そして、芽吹が待つ季節。

 

春、夏、秋を経て、全てのパラノイアが結集した。

探偵役は再び蘇芳へと戻り、マユリと再会するまでが描かれる。

細かいことは言わないから、秋篇をクリアしたらそのまま冬篇を駆け抜けてほしい。

もちろん、蘇芳の家族周り(主に父や義母との関係)や秋篇の後の譲葉とネリネの動きについて掘り下げが足りていない感じは否めないが、GRAND FINALEを見た後ではそんな小さな不満は吹き飛んでしまった。

ここまでプレイしてきた甲斐があったというものである。

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■総評

全寮制の女学院という閉鎖空間の中で、カトリック系(=同性愛が許されない)ということが舞台装置として上手く作用していた。ミステリー部分は「殻ノ少女」より数段劣るが、全年齢向けということで表現の幅が狭くなってしまうことを考慮すれば仕方のないことであろう。むしろ、それを補って余りあるほどの百合要素がこの作品を良作たらしめていると感じた。

スギナミキ先生の儚さと優しさが併存するようなCGの数々も見事である。季節ごとに立ち絵の制服が変わるのだから驚くほかない。もちろん差し込まれるスチルが素晴らしいのは言うまでもない。

Switch版、PS4版は春夏秋冬がセットになったものが発売されているので、百合が好きな人は是非買おう。選択肢が多めなのはノベルゲー初心者にとってはやや難しいかもしれないが、攻略サイトを見れば問題ない。

 

 

ボーカルコレクションは買ったからドラマCDも買わなきゃ(使命感)

 

 

 

あとは公式画集を再販してください……何卒……

エヴァーメイデン 作中用語メモ

●Caput:章
1章 hortus:園
2章 vestis:衣服
3章 rara avis:稀なこと。珍鳥
4章 magnum opus:偉大なる業

●名前
アルエット(Alouette):ヒバリ
ルク(Rook):ミヤマガラス
アヴェルラ(Averla):モズ
ロビン(Robin):コマドリ
キャナリー(Canary):カナリア
マコー(Macaw):コンゴウインコ
パヴォーネ(Pavone):クジャク
オルロ(Olor):ハクチョウ
アドラーAdler):ワシ


●用語
プエラリウム(puellarium):puella(少女)+ arium(~に関する場所)から成る造語。 cf.) aquarium(水族館)、sanatorium(療養所)
インキュナブラ(incunabula):ゆりかご


●礼賛祈詩
とこしえの乙女よ、万物の母よ、万人の花嫁よ
その叡智を恵みに変え、我らの苗床を守りたまえ
汝、その土を穢れの雨に打たせることなかれ
種蒔けど、悪しき種を芽吹かせることなかれ
根を張れど、葉をつけど、欲に溺れることなかれ
手と足に鎖を、その髪にいばらを、内なる獣に鞭を
汝、花園にありて、花を手折ることなかれ


●断罪祈詩
とこしえの乙女よ、万物の母よ、万人の花嫁よ
その誓約を裁きに変え、断罪の術をここに賜われ
手と足に鎖を、その髪にいばらを、内なる獣に鞭を
我、穢れし花園にありて、悪徳の花を手折る者なり
またとなけめ

智見種(シマン)だけ原語の綴りがわからなかったから、誰か有識者……

『ef』感想

魔法少女が魔女になる瞬間に発生する莫大なエネルギー。その源は第二次性徴期の少女の希望と絶望の相転移なのだ」と、どこかのインキュベーターは言った。

 

希望の対極が絶望なのだろうか。

 

「災厄で溢れた箱の底には一握りの希望が残っていた」と、遠い国の神話では語られた。

 

絶望を乗り越えた先には希望が待っているのだろうか。

 

そんなことを考えながら、『ef』の感想をつらつらと記してみよう。

 

 

~はじめに~

 

これまでプレイしてきたエロゲとは異なり、『ef』は章ごとにスポットが当たる人物が異なる群像劇であった。一切の前情報を入れずにプレイしたため、二章へ入った途端に一章の登場人物の影がぐっと薄くなったのにはやや面食らったが、問題なく楽しめた。

 

むしろ、クリアした今となっては『ef』は群像劇でなくてはならなかったとさえ言える。

 

~第一、二章~

 

この二つの章は時系列的にも登場人物も共通しているため、まとめて語るのがよいだろう。

 

まず第一章で主人公を務めていた広野紘。

学生としての生活を送りながら(それほど人気が出ていないとはいえ)漫画家として活動しているという時点で、なかなかの高スペックだ。昔からの幼馴染である新藤景と、奇妙な縁から知り合った宮村みやこから想いを寄せられる。

 

第一章終了時点では、紘とみやこのごくありふれた恋物語にしか思えなかったが、第二章を終えてから振り返ってみると、紘の隣にいるのはみやこでないとダメなのだと感じた。

もちろん、景と結ばれてもそれなりに楽しい未来は待っていたのだろう。だが、きっと学業にも漫画にも専念できず、ゆっくりと朽ちていくだけだったのではないだろうか。

 

居場所を求めてふらふらと彷徨っていたみやこに出会ったからこそ、紘は彼女が帰ってくる場所になる覚悟を決められた。良くも悪くも、みやこは特別(あるいは特殊、異質とも言えよう)なのだ。景は既に紘の日常の一部と化しており、彼に覚悟を決めさせるに足る存在にはなり得なかったのだと思う。

 

その景は、「自分の想いを伝えなければ望む未来は手繰り寄せられない」という現実に向き合えないでいた。一種の現実逃避だ。確かに、想い人と近い距離で気軽に過ごせるのは心地よいだろう。しかし、それはぬるま湯の心地よさに過ぎないのだ。だからこそ、より熱情をもったみやこに遅れをとってしまった。

 

そして彼女の前に現れたのが、「映画」という虚構にのめり込む堤京介であった。第二章は、ともすれば人によっては京介と景の傷の舐め合いに見えたかもしれない。実際、そういった側面もあっただろう。だが、紘にとってみやこが最良のパートナーであったように、景と京介も、停滞した「今」から「未来」へと目を向けるためには、互いが必要不可欠だったのだと思う。痛みを知る人間を癒せるのは、同じ痛みを知る人間だけである。

 

さて、この4人の物語の導き手となっていたのが雨宮優子だ。

明らかに常人ではない雰囲気を出していたが、この時点ではほとんど詳細はわからない。それでも、物語冒頭の火村夕との邂逅のシーンからして、何かしらの鍵を握っているのだろうなとぼんやり考えていた。

 

~第三章~

 

この章で、私は初めて涙を流した。

自分が何者になれるのかと悩む少年、麻生蓮治と、たった13時間しか記憶を保持できない少女、新藤千尋の物語。

記憶障害を抱えたヒロインと、それに向き合う主人公という構図はそれなりにありきたりだ。だが、二人で一つの物語を書き上げるという展開はとても気に入った。たとえそれが、「終わり」へと続くものであったとしても。

そう、物語は「終わり」があるからこそ物語なのだ。

けれど、千尋は選ばなくて済むのならば、13時間という枷さえなければ「終わり」など選びたくなかったはずだ。選ばざるを得なかった彼女の苦悩は、記録はあっても「感情」が付随しない痛みは、どれほどのものだったのだろうか。

 

物語を終わらせ、自身の半身にも等しい手帳を蓮治へ渡したとき、もう泣くしかなかった。そして何より、蓮治が悩みながらも千尋と彼女の病気と真正面から向き合うことを誓い、物語の「終わり」を書き換えて再び千尋の前に姿を現したときには、さらに泣かされた。

 

たった13時間しか記憶が保てない、と千尋は言った。

けれど、彼女が蓮治と共に過ごした時間は嘘ではない。たとえ記憶がなかったとしても、蓮治と言葉を交わした唇が、「好きです」と音を発した喉が、寄り添いながら繋いだ手が、なによりも彼に抱かれた身体が、覚えているはずなのだ。少なくとも私はそう思ったし、そう望んだ。

小さな奇跡をひとつ願っても、バチは当たるまい。

 

二人の未来は決して平坦ではなく、茨も多いだろう。

けれど、この二人ならばきっと歩き続けられると感じさせられた。

 

~第四、終章~

 

ここからは夕と優子の話を中心に記していきたい。

申し訳ないが、修一とミズキは周縁に置いておくこととする。

 

二人の物語を読み終えたとき、第一、二章の登場人物である紘、みやこ、景、京介の四人は夕、優子、凪、修一の予型だったのだと気づかされた。時系列からいえば夕たちの方が先なのだろうが、物語の構成を踏まえれば紘たちを予型と言ってしまってよいと思う。紘たちがそれぞれ未来ある描かれ方をしていたのに対し、夕たちは必ずしもそうではなかったのが悲しいが。

 

また、夕と優子二人の関係性に限れば、それは蓮治と千尋の関係に似ている。優子と関わりぬいた経験があったからこそ、夕は蓮治に「千尋と関わるなら覚悟をしておけ」と半ば脅すように、半ば励ますように言ったのだろう。過去の自分を思い出して懐かしく思ったのか、若さ故の眩しさに目を細めていたのかはわからない。

 

夕と優子から全てが始まった。

「お金が全てではない」とはよく聞く綺麗事ではあるが、やはりお金がないと選択肢がぐっと狭まるのは事実であろう。しかし、絶望の沼から抜け出した優子にとっては、たとえ一人分の食事を二人で分け合うような家計でも、夕がいれば幸せだったのだと思う。

 

子供ができたと判明したとき、夕が現実的な選択肢をとらなかったことは安心した。現実世界ならば、あそこで中絶を選択するのが「賢い」とされるに違いない。しかし、これはフィクションだ。フィクションの中くらい、夢のような幸せが見たいのだ。

家族を失った二人にとって新たな絆となる子供。どれほど祝福されて生まれてくるのだろうと胸が踊った。同時に、終わりに近づいているのだろうな、という予感もしていた。当たらなければいいのにと思ったが、駄目だった。

 

終わりもまた彼ら2人であった。

それぞれが紡いだ縁はそれほど多くはなかっただろう。けれど、縁がまた一つ縁を紡ぎ、その縁がさらに他の縁を紡ぎ……と少しずつ繋がりができていった。そうして最後には、二人の元へと還ってきた。

 

最後アニメに切り替わった箇所では、ただただ切なかった。誰よりも愛しい人、未来を共に歩むはずだった人と別れて、奇跡とはいえ再会できたのに二人ともあまりにも物分りが良すぎた。「もっと一緒にいたい」と慟哭してもいいはずなのに、叫び声をあげることも、別れ際に振り返ることすらしなかった。それが私にはひどく悲しくて、寂しかった。

 

成長するとはこういうことなのだろうか。それとも二人とも既に未来に目を向けていて、再会はそれを確認するための儀式に過ぎなかったからなのだろうか。

 

もう一度言おう。

悲しくて、寂しかった。

しかし、同時に尊さも覚えた。長い旅路の果てに再び巡り合った二人の答えを、私は肯定したい。

火村夕と雨宮優子が始め、終わらせた物語を祝福しよう。

彼らが繋いだ縁が、導いた人が、胸の中に鮮明に刻み込まれた。

 

優子との別離のあと、夕とミズキが"もう一つの"音羽の街を眺めるところで物語は終わる。

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確かに、オーストラリアの地に建てられた街は、オリジナルの鏡でしかないのかもしれない。しかし、そこで暮らす人々の営みは本物だ。毎日幸せがあり、同じ数だけの不幸も生まれている。

 

時折、光は"良きもの"であると言われる。

ならば、街全体に降り注ぐ天光はきっと祝福なのであろう。

 

聖書の言葉を借りるならば、登場人物たちにこう言いたい。

「光あれ」と。

 

~雑な感想~

 

・CG:良

・音楽:良

・キャラ:最良

・ストーリー:最良

 

そこらへんの下手なフルプライスゲーを買うよりよほどコスパが良いので、みんな買いましょう。新海誠が手掛けたオープニングも必見だよ。

 

次はなろうの備忘録でも書きます。多分。予定は未定

信仰と宗教の間で ~『ミッドサマー』感想~

先日、一冊の本を読んだ。

 

1187年 巨大信仰圏の出現 (歴史の転換期)

1187年 巨大信仰圏の出現 (歴史の転換期)

  • 発売日: 2019/12/23
  • メディア: 単行本
 

 

内容としては、1187年という一つの時点における世界の各地域を「信仰」という切り口で解説したものだ。

一人の著者によるものではなく、共著という形をとることで各著者の専門性が遺憾なく発揮されており、ともすれば軽視されがちな近代以前の世界が色鮮やかに描かれている。

 

私がかつて研究していたのが中世ヨーロッパ史であるため同地域に心惹かれるのは当然であるとして、他に非常に興味をそそられたのが総論中の以下の箇所であった。

 

ヨーロッパに「宗教」についての新たな認識が生まれた背景には、十六世紀以降にカトリック世界が宗派分裂を引き起こし、多宗派の併存と宗派の選択権を認めるにいたったことがある。(中略)十八世紀以降、実学と科学の発展を支えて啓蒙主義は、信仰と社会の分離(世俗化)を導き、十九世紀における近代的学問の成立を通して、信仰は、科学的に解明できる学知として、政治、法、経済、文化と並ぶ、人間生活の一分野としての「宗教」に囲い込まれたのである。

西洋近代はキリスト教を尺度として世界の信仰世界を分析し、(中略)体系性ある「宗教」の概念の下に分類した。しかし、仏教やイスラーム教、儒教などの広域性をもつ信仰だけでなく、世界に点在するあらゆる信仰は、こうした西洋近代的な尺度にはうまく当てはまらない。キリスト教ですら、中世においては、宗教という概念ではとらえがたい特徴をもっていた。

では、宗教と対比される「信仰」(本書では「宗教」と表記される場合もある)とは何か。信仰は、信仰する人間の全人格にかかわるものであって、ゆえに人間生活のすべての領域に分ち難く浸透している。(同書、p.7~p.8)

 

誤解を恐れずに簡素化してしまえば

 

・宗教:近代西洋の産物であり、キリスト教を尺度にした体系的なもの

・信仰:近代以前より世界中に遍く存在したものであり、必ずしも体系をもたず、日々の生活に根ざしたもの

 

と言えるだろう。

 

これを前提として、映画『ミッドサマー』の感想をつらつら述べていきたい。

 

TLでそれなりに賑わっていたため「そんなに話題になっているなら観てみるか」という、半ばミーハーな心持ちで映画館に足を運んだわけだが、1,800円を払う価値はあったと思えた。

 

観劇後、「カルト宗教みたいで怖かった」という感想を抱いたのではないだろうか。

実際、以下の記事が話題にもなっていた。

 

「向こうで映画見るけどあなたもどう?」元カルト信者の私が『ミッドサマー』に覚えた既視感 #ミッドサマー #カルト宗教 https://bunshun.jp/articles/-/36616

 

もし私が前述の書籍を読んでいなかったら、同様の感想を抱いたに違いない。

しかし、実のところはそうではないので、上で立てた前提をもとに話を進めていきたい。

 

・ホルガ村に存在していたモノは宗教なのか?

 

この問いについては、はっきり否と言えよう。

確かにホルガ村は北欧に位置してはいるが、"近代的な"文明社会から隔絶されており、なにより体系的な宗教組織や教義、明確な指導者は見られなかった。

統一性が不明な聖典らしきもの、凡庸な輪廻転生的な教えといった要素は信仰の範疇を出ているとは言い難い。作中に散見された、儀式を絵で表現したものやルーン文字も宗教的なものではなく、古代のゲルマン語派(ゲルマン人と呼称していないことには留意されたい)に源流をもつと考えれば、こちらも信仰に属するであろう。

キリスト教化もろくに済んでいない頃から使われていたルーン文字に、宗教性を見出すような真似は、ラクダが針の穴を通り抜けるよりも難しい。

 

結局は、ホルガ村という小さな村に根付いた生活習慣であり、コミュニティを存続させるためのルールと言ってもよい程度のモノしかないのである。あれを宗教というのはあまりにも大げさだ。

 

やや余談ではあるが、日本人の宗教観について同じ前提をもとにして少し触れてみたい。

 

「日本人は無宗教である」という人がいて、それに対して「日本人はクリスマスを祝うし、正月には神社にお参りして、葬式は寺で行う。無宗教ではなく、あらゆる宗教に対して寛容なのだ」という反論が挙がる、という図式を見かけたことがある。

 

私はこのどちらも適切ではないように思える。

日本人がもっているのは「宗教」ではなく「信仰」なのだ。

 

例えば、幼い頃に親から「ご飯を残すと罰が当たるよ」というようなことを言われたことはないだろうか。

よく考えてみてほしい。

一体、誰が罰を与えるというのか。

キリスト教的な、すなわち宗教的な「神」を想定していないのは確実だ。

だが実在する人間を想定するようにも思えない。(もしかしたら言葉通りに親から叩かれた人もいるかもしれないが)

恐らく、無理矢理に解釈すれば八百万の神のうちの誰か、ということになるのだろうが、私としてはもっと曖昧な「人間ではない何か」程度のものだと思う。

これはどうみても宗教ではなく、土着的な信仰だ。

 

それゆえ、日本人は無宗教ではなく「信仰」をもっていると表現するのが適切ではないだろうか。クリスマスや神社、お寺といったことも、それらを宗教的な要素ではなく信仰の要素へ落とし込んでいるからこそ、特別な意識をもたずに実行しているだと思う。

 

さて、もう一方の「日本人は宗教に寛容だ」という意見は鼻で笑い飛ばしたい。

次項でも述べるが、日本人は異質なものに極めて不寛容であると思っている。それは私とて例外ではないと、自戒の意味も込めて言っておく。

 

一つの宗教の信徒である人間は、信仰の徒である日本人から見れば明らかに異質なのだ。異質なものを奇異の目で見るにとどまらず、ときには排除や差別にも繋がることもあるだろう。私個人の体験を一般化するのは乱暴な論理展開なので控えるが、この感覚はそれほど間違っていないように思える。

そのような人間を果たして「寛容」と表現するのは果たして適切なのであろうか。

「寛容さ」とは如何なるものであるべきか、今一度考えてみてほしい。

 

・映画に感じた「気持ち悪さ」の正体は何か?

 

私は「理解できないこと」がまず一つの原因であると思う。

 

ダニーに感情移入した人は心地よさを覚えたらしいが、私は全体を俯瞰するように観ていたため、残念ながらそうではない。作品全体を通して気持ち悪さがつきまとっていた。

なにせ理解できないことだらけだ。

 

長生きしたいとは思わないが、少なくとも七十二歳になったからといって自殺するのは普通に恐怖を覚えるし、生きた人間を生贄として捧げる感性も、ギャグシーンともとれる謎の性儀式も、何一つして理解できない。

それゆえの気持ち悪さだ。

 

大抵の人間は自分の理解の範疇を超えたものについて、恐怖や気持ち悪さを覚えるはずなので、この感覚は少なくと異常ではないと思いたい。

 

ただ、ここで声を大にして主張しておきたいのだが「理解できず気持ち悪い=否定すべき」という図式は成立しないし、成立してはならないのだ。

作中で自殺の儀を止めようとした人間が数人いたが、あれは近代文明社会的な価値観の押し付けにすぎず、はた迷惑な行為だ。コミュニティ外からやってきた人間が、いきなり内部のことについて「あなたたちは間違っている」と言い出したならば、そんなものはただの荒らしである。

クリスチャンがヤケクソ気味に叫んだ「この人たちはそういう人間なんだ!」というセリフが、実は最も最適な答えだと思える。

 

もっとも、他人が死のうとしているのを見たら焦るのが現代人としては普通の感覚であるし、阻止できないかと模索した善性は十分好意をもつに値する。

 

もう一つの理由は「異様なまでの同調圧力」だ。

 

最も印象的だったのは、クリスチャンのセックスを覗いてしまい泣き叫ぶダニーに寄り添う村の女性たちだが、それ以外にも「皆が同じであること」を強いる場面が散見され、それがとにかく気持ち悪かった。

 

私自身、自分から他人に合わせるのは嫌いではないし、よくすることだが、それを他人から強制された途端、たちまち不快感の塊へと変化する。

自らの意志によらず、自らの個性を潰すことが強制されるのはストレス以外の何者でもない。

 

こういうときに思い出すのは小学校時代だ。

誰が言い出すでもなく、多数派に属していない=皆と同じでないと認知された瞬間、その子の居場所は極端に狭くなる。今思い返せば、そうならないようにスクールカースト(当時はまだそんな言葉はなかったが)上位の人間に無意識のうちに擦り寄っていた。

カースト下位の子を見る目は子供ながらにして残酷であったと思う。

 

もちろん先生たち業務量を考えれば、子どもたち一人一人をケアするのはものすごい負担であるし、そんなことまで望むのは酷であろう。子どもたちを効率よく管理するには、皆が同じである方が圧倒的に楽なのだ。

とはいえ、画一であることが良しとされるのはひどく不気味で歪である。決め事をするときにやたら多数決が使われていたが、あれはただの数の暴力であり、少数派の否定に他ならなかった。

 

そんな歪さを美化し、泥で煮込んだようなものを『ミッドサマー』に感じたからこそ、気持ち悪さを覚えたのだと思う。

 

 

ここまで長々と述べてきたが、気持ち悪さをあれほど突き詰めたのはエンタメ作品としては一級品だと思う。まだ観ていない人は是非観に行ってほしい。

 

最後に余談をもう一つ。

崖の上から老人二人が飛び降りたシーンでは、私は『素晴らしき日々 ~不連続存在~』の第二章を思い浮かべた。『ミッドサマー』を楽しめた人ならば間違いなく面白いと思えるはずなので、機会があればプレイしてほしい。(リンク先は年齢制限ありなので、自己責任で飛んでください。)

 

www.keroq.co.jp

 

次はゲームの感想でも書くよ。多分。

イースター解説記事

よみゆめのタペ、ヤバくないですか?

 

はい。

 

まさかアドベントカレンダー企画が終わってからも、ここに記事を書く機会が訪れるとは露にも思いませんでした。

 

そんなどうでもいいことはさておき、今日発表されたAnime Japanのジェンコ商会ブースの商品ラインナップをご覧になりましたでしょうか。

 

いやあ、†尊い†の一言に突きますね。

 

というわけで、どうやらこのタペはイースターをモチーフにしているとのことだったので、今回はそのイースターについてつらつら書いていこうと思います。

※ただし、当記事においてはカトリックに限るものとします。

 

・そもそもイースターとは何か?

 

イースター(Easter)とは復活祭の英語名です。

そして復活祭とは、簡単に言ってしまえば受難と死を通して復活したキリストを祝う祭儀であり、教会暦の中でで最も重要な祭日でもあります。

 

「あれ? クリスマスが一番大事じゃないの?」と思った方。

 

確かに日本ではクリスマスが圧倒的に有名なので、そう考えるのも自然なことですし、神の子が地上に降誕されたことを祝うのも、もちろん重要です。

しかし、「誕生」することは誰にでも可能ですが「復活」を成し遂げた人物は聖書の中においても数えるほどしかいないので、こちらの方が圧倒的に重要度は高いです。

キリストの復活を信じること自体、信仰の根本を成すものであることからも、それは窺えます。*1

 

また復活祭は「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」とされているため、毎年日付が変わります。今年は4/21、来年は4/12になります。固定しろよめんどくせえ

 

・復活祭って何をするの?

 

全部書いていると果てしなく長くなるので、大事なものだけ取り上げます。

 

四旬節:灰の水曜日に始まる、40日間の復活祭のための準備期間

 

灰の水曜日:復活祭の46日前(当然、日付は毎年移動します)の水曜日。前年の枝の主日に使われた枝を燃やしてできた灰を額・頭に受ける。古代より灰は悔い改めのしるしであり、四旬節に入るにあたり自らの行いを悔い改める。あとこの日は断食必須。

 

枝の主日:復活祭の1週間前の日曜日(同上)。キリストがロバに乗り、エルサレムへ入城したことを記念するもの。

"その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って出迎えた。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」"(ヨハネによる福音書12章12~13節)という聖書の記述が由来。

 

聖木曜日:キリストと使徒たちの最後の晩餐を記念。聖書内の記述に従い、洗足式を行う(ヨハネによる福音書13章1~15節)。典礼色は白。

 

聖金曜日:キリストの受難と死を記念し、救いのしるしである十字架の勝利を称える。パンとぶどう酒が聖別されないため、厳密には行われるのはミサではない。典礼色は赤。

 

聖土曜日:キリストの死と埋葬を沈黙のうちに思い起こす日。典礼色は白。土曜日の深夜から徹夜して行われる典礼として復活徹夜祭がありましたが、現在ではそんなことはなく、普通に土曜日の夜にミサが執り行われます。典礼色は白。

一切の光をなくした聖堂の中でろうそくを灯したり、復活の大ろうそくを先頭とした行列、大ろうそくの祝福などの「光の祭儀」が特徴的。僕がオンリーで出した個人誌の中でも触れましたが、キリスト教は「光」の宗教ですので、この祭儀は決定的に重要です。

 

復活の主日:復活祭本番。典礼色は白。

 

ざっと書いただけでもこれだけのものがあります。

復活の主日を迎えるために1ヵ月半近くの準備期間を設けるほどに、復活祭というのは大切な日なのです。

細かいことはカトリック中央協議会のwebページに色々書いてあります。

www.cbcj.catholic.jp

・復活祭とうさぎ

 

ようやく刀使の話に戻ってきます。

タペでは夜見さんも結芽ちゃんもうさぎのコス(?)をしていますが、これはイースター・ラビットを意識してのことだと思われます。

 

イースターという言葉の語源になった(という説がある)アングロ・サクソン人が信仰していた(らしい)女神「エオストレ(Eostre)」がいるのですが、彼女を祝うお祭りがちょうど復活祭の時期でした。このお祭りは豊饒・繁栄を祈る春のお祭りであり、そこではうさぎが誕生の象徴として大切にされていました(うさぎは多産→豊穣という論理)。

 

キリスト教を布教する際に土着信仰と融合するのは決して珍しいことではなかったので、アングロ・サクソンのお祭りと復活祭が混ざった結果、イースター・ラビットなるものが生まれた……らしいのですが、上でも括弧書きにしたように、多分にして根拠が曖昧なので、本当かどうかはわかりません。

ですが、結果として現代にイースター・ラビットが根付いているのは事実です。

 

・復活祭と卵

 

結芽ちゃんがもった傘に卵状のものがぶら下がっていますが、これはおそらくイースター・エッグだと思われます。

 

鳥が卵の殻を破って出てくることをキリストの復活になぞらえたものであり、こちらも古代の異教から取り入れたものとされているらしいのですが、イースター・バニー同様、起源は定かではありません。

ただ、中世には既に卵を墓のレプリカに飾る習慣が定着していたそうです。

 

ゲームが好きな人は、よく開発者などがゲーム内にちょっとしたメッセージや新作タイトルの暗喩を仕込むことを「イースター・エッグ」と呼ぶので、馴染みがあるかもしれませんね。

 

以上、簡単にイースターについて説明してみました。

最低限の情報をまとめただけでも3,000字弱というレベルなので、もっと掘り下げたら1万字は超えそうな気がしますね。1冊薄い本が出せるよ。

 

これを読んだ方には「ふーん、そうなんだ」くらいに思って、是非Anime Japanでよみゆめタペを購入してほしいですね。私も買いに行きます。

 

なにか質問がありましたら私のTwitterアカウント(@Basilio0102)まで。

ここまで長々とお付き合い頂き、ありがとうございました。

 

ローマ教会から見た『刀使ノ巫女』

12月24日を迎えました。

今日はクリスマスイブであると同時に、皐月夜見さんのお誕生日ですね。

 

夜見さん。

お誕生日おめでとうございます。

 

はい。

 

というわけで、刀使ノ巫女 Advent Calendar 2018の24日目の記事です。

adventar.org

今回も懲りずに好きなネタでつらつら書いていこうと思います。

扱うテーマは

 

刀使ノ巫女の世界のローマ教会について」

 

です。

 

まずローマ教会とはなんぞやということですが、全世界で最多の信者数を誇るキリスト教のうち、最大宗派であるカトリックを指します。*1

カトリックはローマに総本山であるバチカン市国があるので、ローマ・カトリック教会とも呼ばれたりします。「カトリック」といったときには宗派、「ローマ・カトリック教会」といったときには教会組織を指すニュアンスが強いので、以下では後者の略である「ローマ教会」を使用します。

 

さて、本題に戻りましょう。

 

刀使ノ巫女の世界におけるローマ教会は、刀使やひいてはノロ/荒魂についてどういった反応を示すかということですね。

 

まず刀使やノロを知らないということはないでしょう。

特段隠されていることでもないですし、日本にも管区が存在する以上、教皇庁に情報がいっていないということはまずありえません。

 

では彼らがいつ刀使たちのことを知ったのか?

それはおそらく16世紀、かの有名なイエズス会フランシスコ・ザビエルらが日本へキリスト教を布教しに来たときでしょう。彼らの滞在期間はわずか2年でしたが、それだけあれば刀使や荒魂に触れる機会は十分にあったと考えられます。

 

これを前提としたうえで、以下の三点について妄想を撒き散らしていきたいと思います。

 

①神性と聖性

②ヘクサエメロンから見る珠鋼とノロ

③ローマ教会が刀使・ノロ・荒魂をどのように捉えるか

 

①神性と聖性

 

刀使ノ巫女公式サイトによると、珠鋼には神性が、そしてその残滓であるノロには負の神性があるとされています。

しかし、ローマ教会にとってはこの「神性」という単語が問題になってきます。なぜなら「神性」(divinity/Göttlichkeit/divinitas)という語は創造主たる神ひいては神の子であるイエス・キリストにしか使われないからです。

珠鋼に「神性」があると認めることは、珠鋼が神と同格の存在と認めることと同義です。ましてや負の「神性」なんてものはもってのほかです。一神教であるにもかかわらず、もうひとりの神をつくりだしてしまうことになってしまいますから。

 

では「神性」という語の代わりに何を使うのか?

 

それはおそらく「聖性」になるかと思います。

「聖性」は「神性」と違って聖人や聖遺物、聖水、聖杯といった人や物に使われる語です。ただ日本語の「聖なる~」にあたるsacredとholyのうち、どちらが珠鋼に使われるかはわかりません。

前者なら人の手で聖別されたというニュアンスが、後者ならHoly Land(=聖地)のように元から聖なるものであるというニュアンスが強くなるので、どちらかといえば後者のような気もしますが。

 

どちらにしろ、ローマ教会が「神性」という語を珠鋼に使うことは絶対にないと断言できます。そんなことをしてしまえば、ローマ教皇の首がいくつあっても足りません。

 

②ヘクサエメロンから見る珠鋼とノロ

 

前段で神性と聖性の差異について確認しましたが、そもそもノロに関しては「聖性」という語すら使わないでしょう。

 

基本的に「聖性」をもつものから分離したものは2種類に分かれます。

ひとつはそのまま聖性を維持するもの。

聖人の骨や衣服=聖遺物や、聖槍あたりがそうですね。大部分はこちらになるかと思います。

もうひとつは、明確な「悪」となるもの。

こちらの例として創造の6日間についての解釈であるヘクサエメロンが挙げられます。

創世記の冒頭に「神は言われた。『光あれ』こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」という記述があります。*2

このうち「光を見て、良しとされた」という部分を「光=良いもの=天使」であり、光の創造とは天使の創造に他ならず、光によって分けられた夜は悪いもの=悪魔であるという解釈が存在します。

 

珠鋼とノロの関係もおそらく上記の解釈と近いものになると思われます。

すなわち、珠鋼には(教会が認めるそれとは違うものの)「聖性」が存在し、そこから零れ落ちたノロは「悪性」をもつものであるという解釈です。

ノロが集まって荒魂になり、人に害を及ぼすところからも、「悪性」を認めることは何の問題にもならないでしょう。

 

③ローマ教会が刀使・ノロ・荒魂をどのように捉えるか

 

さて、そんな「悪性」をもつノロを祀る日本人を、当時のイエズス会士たちは全く理解できなかったでしょう。彼らからすれば悪魔を祀っているようなものですから。

布教を進めるにあたって宣教師がとり得る選択肢は2つです。

1. 既存のローカルな信仰を全て否定し、改宗させる(理想路線)

2. ローカルな信仰を認めつつ、キリスト教を受容してもらう(現実路線)

 

これが問題となったのが典礼問題や典礼論争と言われる一件ですね。世界史の教科書が手元のある人は開いてみてください。おそらく載っているはずです。

 

中国での伝道活動にあたってイエズス会士たちは2の手段を取りました。キリスト教に改宗以後も孔子や祖先の礼拝を認めたのです。

しかしフランシスコ会ドミニコ会は1を強行に主張しました。

おそらくノロを社で祀ることに関しても同様の議論が起こり得たものと思います。

紆余曲折を経て1715年に教皇クレメンス11世は伝統儀礼を禁止し、1742年に教皇ベネディクトゥス14世が典礼論争自体を禁止しましたが、この時点ですでに日本では宣教師たちが追い出されていたので、日本の信徒たちはそのままノロを祀ることを続けたのだと思います。

 

そして2018年。

さすがに現代のローマ教会は伝統儀礼を禁止してはいません。

同性愛や中絶を一貫して禁止するなど相当に保守的なローマ教会ですが、最近は本当に少しづつですが変わりつつあるような気がします。

 

そんなローマ教会が刀使やノロ、荒魂をどう捉えているかについてですが、基本的に「関与しない」という方針になるかと思います。

極東の小さな島国の問題に関与できるほどの力は今のローマ教会にはないですし、刀使やノロ、荒魂についても無理にキリスト教の枠組みに組み入れようとはせず、信仰が侵されない限りは静観するでしょう。

 

長々と語っておいてそれかよと思うかもしれませんが、案外そんなものです。

みなさんが想像するより教会は怪しくもなければ、大きな権力もありません。あくまでも信徒たちにとっての家なのですから。

 

というわけで、前回に引き続き参考文献の紹介。

もっとも、今回は大学時代の講義資料を元にした部分が多いので、1冊だけです。

ヘクサエメロンとかに関してはRI-OPACを漁れば面白そうな論文が見つかるかもしれません。ちなみにCiNiiでは1本もヒットしませんでした。日本で中世ヨーロッパ史の研究者が少ないのはとても残念です。

http://opac.regesta-imperii.de/lang_en/

 

・『岩波キリスト教辞典』

 

岩波キリスト教辞典

岩波キリスト教辞典

 

 

あらゆるキリスト教の用語について学術的な解説が載っている辞典です。

色々創作のネタに使えることがなきにしもあらず。

 

ここまで読んで頂きありがとうございました。

冬コミに来られる方は弊サークルを何卒宜しくお願い致します。

 

 

 

 

純愛はいいぞ。

*1:CIAの公式サイトより。

https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/xx.html

世界の人口が74.1億人で、うちキリスト教徒が31.4%なので約22.4億人ですね。さらにそのうちカトリックの人口は12.9億人ほどとのこと。

http://www.thetablet.co.uk/news/9241/increase-in-number-of-catholics-worldwide-according-to-vatican-stats

*2:日本聖書教会『新共同訳 旧約聖書』p.1

刀使ノ巫女のキャラクターに関する備忘録

待降節に入ってから二度目の主日となりました。

教会の新たな1年を良き年とするためにも、主の御降誕をきちんとお迎えできるように、日々の祈りを大切にしたいですね。*1

待降節ということで、教会に行けば祭壇の横に樅の小枝で編まれたアドベント・クランツを目にすることができるかと思います。日曜日ごとにろうそくに1つずつ火が灯され、クリスマスには4つ全てのろうそくに光が宿っているはずです。

アドベント」の名前がついたものといえば、アドベント・カレンダーなんかもありますね。

 

はい。

 

というわけで、刀使ノ巫女 Advent Calendar 2018の9日目の記事となります。

adventar.org

何を書けばいいかわからなかったのですが、以前とじらじで本渡さんがやっていたような、キャラの誕生日やら名前を掘り下げてみる……みたいなことをつらつらと書いていきます。

ただ、本渡さんの手法をそのまま踏襲してもつまらないので、僕らしい方法を使いたいと思います。あわよくば創作のネタになったらいいな

 

まずは誕生石から。

誰がどの宝石かということはもちろん、その宝石の語源についても触れていきます。

使うのはセビリャのイシドルスが記した『語源』という本。どういった本なのかは最後に紹介します。

 

・衛藤可奈美 誕生日:8/13 誕生石:ペリドット/サードニクス

ペリドット

記述なし。

はい。さっそく『語源』には載っていません。日本語のWikiには「十字軍によって紅海に浮かぶセントジョンズ島から持ち帰られた」とありますが、嘘くさいことこの上ないですね。ただ、ケルン大聖堂にある東方の三博士の聖堂を飾っているというのは本当らしいので、ケルンへ行った際には探してみるといいかもしれません。ちなみに私は見逃しました。

そんなことより大事なのはペリドットが緑色だということ。

緑色ですよ、緑色。これはもう運命ですね。かなひよ万歳。

 

【サードニクス】

縞瑪瑙(onyx)の艶と赤瑪瑙(sardius)という語の合成から。

縞瑪瑙(onyx)は人間の爪に似た白い層をもつため、爪を指すギリシア語から、赤瑪瑙(sardius)はサルデーニャ人によって初めて見つけられたことから、そう呼ばれる。

誰かうまくネタに使ってください。

 

・十条姫和 誕生日:1/22 誕生石:ガーネット

【ガーネット】

燃えるように輝く石の中で一番地位が高いもの。闇の中でさえ石炭のように燃え盛る赤色に輝き、その光は夜の闇にも負けることはない。

赤色ですよ、赤色。これも運命としか言いようがないですね。かなひよはいいぞ。

 

・柳瀬舞衣 誕生日:2/14 誕生石:アメジスト

アメジスト

紫色の宝石の中でアメジストは特権的な地位にある。アメジストはスミレ色を伴った紫色で、その華麗さは薔薇のそれのようである。ワインを指すギリシア語から、そう呼ばれる。

沙耶香ちゃんから見た舞衣ちゃんはこんな感じなのでしょうか。まいさやもいいよね。

 

・糸見沙耶香 誕生日:11/17 誕生石:トパーズ

【トパーズ】

緑色の宝石の一種で全ての色に輝く。雲で覆われたアラビアの島(紅海のトパズス島)で見つかった。この島を見つける困難さにちなんで「探す」という意味のギリシア語から、そう呼ばれる。

トパーズに緑色なんてないんですけどね。沙耶香ちゃんにはブルートパーズが似合うと思います。

 

・益子薫 誕生日:6/16 誕生石:パール

【パール】

パールは最も素晴らしい白の宝石で、海の貝から見つかることから、そう呼ばれる。貝がある時期に吸い込んだ天空の露からできており、あるパールは一度にたったひとつしか見つからないものとも呼ばれる。

エレンちゃんにとって薫はたったひとりしかいない、かけがえのない存在っていう暗喩でしょうか。滾りますね。

 

・古波蔵エレン 誕生日:5/15 誕生石:エメラルド

【エメラルド】

緑色の宝石の中でもエメラルドは傑出している。古代の人々はエメラルドを真珠に次ぐ価値としている。極端な緑色をしていることから、そう呼ばれる。表面は鏡のように像を反射するため、皇帝ネロは剣闘士の試合を観るときに用いていた。

エメラルドの説明の中に真珠の話が入ってきてるので、これはもう約束されたかおエレですね。

 

獅童真希 誕生日:7/24 誕生石:ルビー

【ルビー】

その眩い輝きから、そう呼ばれる。火の中では輝きを失うが、水に入れると輝きだす。

ルビー……赤……寿々花さん……まきすず……まきすず万歳。

 

・此花寿々花 誕生日:9/9 誕生石:サファイア

サファイア

紫と青が混じっていて、金色の斑点があり、メディアで見つかるものが最良である。

寿々花さんの瞳ってサファイアみたいですよね。ネタ切れです

 

・皐月夜見 誕生日:12/24 誕生石:ターコイズ

ターコイズ

記述なし。

書いてないイシドルスが悪いです。

 

・燕結芽 誕生日:3/3 誕生石:コーラル

【コーラル】

海中で形成され、枝分かれした形状である。緑色もあるがたいてい赤色。鋭いナイフで切り取られることから、「切り落とす」というギリシア語にちなんで、そう呼ばれる。

ネタにしづらいことこのうえない。

 

・折神紫 誕生日:6/13 誕生石:ムーンストーン

ムーンストーン

記述なし。

紫様の誕生石について書いていないなんて、イシドルスは極刑に値します。

 

ここまで主要11人について見てきましたが、情報量に相当の差がありますね。まあ仕方ないことですが。懐が温かい人はプリニウスの『博物誌』(全6巻)も読んでみるといいかもしれません。これもあとで紹介します。

 

さて次は守護聖人について。こちらのサイトをもとにしていきます。

Laudate | 聖人カレンダー

誕生日は上で書いたので省略します。

 

・衛藤可奈美  守護聖人:聖ポンチアノ教皇 聖ヒッポリト司祭殉教者

・十条姫和   守護聖人:聖ビンセンチオ助祭殉教者

・柳瀬舞衣   守護聖人:聖バレンチノ司祭殉教者

・糸見沙耶香  守護聖人:聖エリザベト修道女

・益子薫    守護聖人:聖ルトガルディス修道女

・古波蔵エレン 守護聖人:聖イシドロ農夫

獅童真希   守護聖人:聖シャーベル・マクループ司祭

・此花寿々花  守護聖人:聖ペトロ・クラベル司祭

・皐月夜見   守護聖人:聖シェーベル・マクルーフ司祭

・燕結芽    守護聖人:聖クネグンダ皇后

・折神紫    守護聖人:聖アントニオ司祭教会博士

 

特にネタには繋がりませんでした。解散。

 

ここまで長々と書いてきましたが、ネタに使えそうなのは半分くらいでしょうか。誕生石の方は石言葉とかの方が良いですね。

 

以下、書籍の紹介。

 

・セビリャのイシドルス『語源』

 

The Etymologies of Isidore of Seville

The Etymologies of Isidore of Seville

 

 

中世初期の神学者であるセビリャのイシドルスが編纂した百科辞典で、ありとあらゆるもの語源が収録されています。異教徒である古代ギリシアの知識もきちんと収録されているのがポイント高いですね。残念ながら邦語訳はありませんが、英語としてはそこまで難しくないので、読んでみると面白いかもしれません。

 

・大プリニウス『博物誌』

 

プリニウスの博物誌〈第1巻~第6巻〉

プリニウスの博物誌〈第1巻~第6巻〉

 

 

言わずと知れた大プリニウスの傑作。天文や地理、動植物から宝石まで、こちらもありとあらゆる知識について収録した本です。『語源』にも大きな影響を与えています。全て邦語訳されているようなので、是非一度お手に取ってみてください。

 

ここまで長々とお付き合い頂きありがとうございました。そもそも最後まで読んだ人なんかいないでしょ

最後に宣伝を。

今度の冬コミにて、とじみこの百合SS集を頒布するので、ご興味のある方は是非【1日目 東R09b】までお立ち寄りくださいませ。

サンプルはこちら↓

www.pixiv.net

*1:教会暦は待降節を起点に組まれているため